グイノ神父の説教

 

C年

特別な祝日

聖人の祝い


   

聖家族の祝日
神の母聖マリア
主の公現の祝日
主の洗礼の祝日

主の奉献の祝日



   聖家族の主日 C年  20241229日    グイノ・ジェラール神父

        サムエル記上1,20-2224-28  Ⅰヨハネ3,1-221-24  ルカ2,41-52

 数日前に私たちはクリスマスの出来事についてベツレヘムの羊飼いたちの証言を聞きました。今日は、ミリアムというナザレ出身の女性が話してくれたイエスの家族についての話を伝えたいと思います。彼女は次のように私に語ってくれました。

 「毎日、村の泉へ水を汲みに行くと、私と同い年のマリアという婦人に出会います。彼女は時々、水の入った重いバケツを運ぶのを手伝ってくれる息子のイエスを連れています。マリアはいつも笑顔で気配りがあり、泉に来る年配の女性たちを躊躇せずに手伝い、水のいっぱい入ったバケツを家まで運んでました。マリアはあまり多くを話しませんが、悲しみが私たちを襲う時、心を温め、自信を取り戻させてくれる言葉をかけてくれます。マリアは噂話を避け、誰も批判せず、出会うすべての人に微笑みかけます。

 マリアの夫ヨセフは手先が器用なで、誠実な大工として、特に貧しい人々のために無償で働くことで知られています。ヨセフは、息子のイエスに木材や道具を大切にしながら、手作業の技術を教えることを誇りに思っています。仕事で彼の手は硬くなっていましたが、いつも誰かを助けるために差し伸べる準備ができています。ヨセフは、自分の仕事が創造的であり、神の創造の業と結びついているとよく説明します。だからこそ、彼は息子のイエスを熱心に教育し、彼もまた創造者となり、手仕事に大きな敬意を払うように育てています。マリアとヨセフは非常に仲が良く、いつも一緒に会堂に祈りに行きます。彼らの律法に対する従順さと控えめな態度は、皆の賞賛を受けています。私は彼らの最も近い隣人から聞きましたが、彼らは夫婦喧嘩や口論したり、子供を怒鳴ったりすることは一度もなかったそうです。不思議なことですね

 イエスは、同じ年齢の子供たちにとっては少し特別な存在です。もちろん、彼は仲間と一緒に遊び、彼らと同じように親に従順に従い、仲間たちと一緒に律法を熱心に学んでいますが、彼が祈るときの態度は皆を少し驚かせます。彼の中に何か特別なものがあり、それが彼から放たれ、周囲に伝わっていくのを感じます。彼は笑うことや人を助けることが好きで、貧しい人々に何かをあげたり、おやつを分け与えたりする姿をよく見かけます。この子は、苦しんでいる人々に対しても大きな思いやりを示しているようです。イエスの家族は、その思慮深さや信心深さ、そして他の人たち、特に弱くて恵まれない人たちへの配慮を通して、私たち全員にとっての模範です。

 聖家族の特徴である喜びに満ちた謙虚さは、「一緒に生きること」や「愛することを選択すること」であることを私たちに教えてくれます。神の前で自分自身が小さくて貧しいことを認識するによって、私たちは、自分よりも貧しい人や弱い人に対して敬意を持って迎えることができます。
 

イエス、マリア、ヨセフは忠実に祈り、会堂で教えを聞き、律法を守りながら、神の言葉がどのように彼らの生活を導いたかを私たちに示してくれます。それは決して優しいことではありませんでした。なぜなら、イエスは神の子であり、マリアは聖霊で満たされ、罪から守られている方で、一方、ヨセフはダビデの子孫ですが、実子でない子どもの父親でしたから。

 ですから、私たちも聖家族に祈り、私たちの違いや欠点にもかかわらず、共に生きることを学ばせてくださいと願いましょう。他者に向けられる寛大な心、神に向けられる祈りに燃える魂、そして皆のために役立つ働きに耐えられる体を与えてくださるように聖家族にお願いしましょう。それは神ご自身がその聖性によって私たちを満たしてくださるためです。アーメン。

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      神の母聖マリア C年  世界平和の日 202511日  グイノ・ジェラール神父

                  民数記6,22-27       ガラテヤ4,4-7      ルカ2,16-21 

 今日、私たちは神の母であるマリアと世界平和の日を祝います。しかし、私たちにとってマリアとはいったい誰でしょうか。彼女は世界を災害や悪者から守るスーパーマンのようなスーパーヒーローなのでしょうか。それとも、平和の后として、私たちを幸せにするために無益な戦争や争いを止めるあらゆる力を持つお方でしょうか。確かに、聖母マリアは罪がなく、神の恵みと賜物に誰よりも恵まれているので、私たちにとってマリアは真似することのできない模範です。

 私たちはマリアについてできる限りの賛美を言うこともできますし、逆にマリアを完全に無視することもできます。さらに、一部の人のように、マリアに捧げられた崇拝のせいでマリアは信仰の障害であると考えることもできます。しかし、マリアは自分自身について何も語らず、ただ、自分はすべてのことにおいて主のご意志を実践することを望んでいる「主のはしため」であると述べています。マリアは何も話さず、心の中で自分の人生のあらゆる出来事について深く考えました。マリアが経験したすべてのことは、彼女にとって祈りと瞑想の本のようになります。神の目でマリアはそれを読み、心に思い巡らせます。

 マリアは神の心に隠された神秘です。この神秘はあらゆる知性を超え、それを私たちに理解させることができるのは、「神の深みを探る」聖霊だけです(参照:1コリント2,10)。夢の中でヨセフに示された「イエス」と言う名前は「救い主」を意味します。普通、東洋では、新生児に付けられる名前は、その子が大人になったときの姿を表します。マリアという名前は、ヘブライ語の「ミリアム」に由来しています。その名は「最愛の人」、「海の星」、さらには「すべてを高く上げる人」を意味しています。やはり、天地創造の前に神に愛されたマリアは、海で船乗りを導く星のように、私たちを神へと導き、その被昇天によって天の栄光にあげられました。マリアは、自分の祈りと執り成しによって、私たちを唯一の救い主イエスへと引き上げようとします。
 
 聖ルカと聖マタイは、彼らの物語の中で、幼子イエスを母親のマリアから決して引き離しませんでした。イエスとマリアは同じ愛の神秘と、世界を救う神の計画の啓示を形成しています。マリアの神聖な母性は、彼女の無原罪の御宿り、童貞であること、そして彼女の被昇天を説明しています。マリアの神聖な母性は、救いの螺旋状の展開の中心軸です。431年のエフェソス公会議でマリアに「テオトコス」(神の母)という称号が与えられて以来、教会はこの権威ある言葉を使ってマリアに呼びかけ続けてきました。「アヴェ・マリア」の祈りを初め、マリアに向けられているすべての祈りは、この「神の母、聖マリア」という称号を参考にしています。

 神の母マリアは、私たちの母でもあります。なぜなら、神は愛をもってそうお決めになったからです。この新年の初めにあたり、今日の典礼は、私たちが心に抱いている希望や望み、特に平和への願いに信仰の眼差しを注ぐように私たちを招きます。マリアとともに、私たちのすべての願いと希望を神の祝福のしるしの下に置きましょう。神は絶えず祝福し、私たち一人ひとりのために平和と幸福を願っておられる方です。神は命、愛、平和の創造者であるからこそ、神が望んでいることは必ず実現されるのです。ですから揺るぎない信頼を持って、神の平和が地球に浸透するように、神の母であり私たちの母であるマリアの執り成しを願いしましょう。ほんとうに、クリスマスの夜に天使たちが歌ったことが世界中で実現しますように。「いと高きところには神に栄光が、地には神の愛するたちに平和がありますように。」アーメン。

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            主の公現の主日  C年 202515日   グイノ・ジェラール神父

              イザヤ60,1-6      エフェソ3, 2-35-6      マタイ2,1-12

東から来た占星術学者たちは大きな希望を心に抱いていました。彼らは、新しく生まれたイスラエルの王に会うことを知っていました。しかし、彼らにとって、イエスを発見することはある意味で信仰の試練でした。信仰の経験には常にこの矛盾があります。なぜなら信仰は光をもたらすと同時に闇を明らかにするからです。この場合のリスクは、落胆ややり直し、あるいは暗闇に飲み込まれてしまうことです。結局、信仰と希望を失う危険があります。

 このように、期待に胸を膨らませてエルサレムに到着した占星術学者たちは、生まれたばかりの新しい王に誰も興味を持っていないのを見て失望しました。この知らせを聞いて、ヘロデ王をはじめ、エルサレムの人々は大いに喜ぶどころか、パニックの状態に陥りました。民の指導者たちは何と答えるべきか分からず、無反応のままでした。律法学者たちが謎めいた、理解し難い答えを彼らに与えるまで占星術学者たちは辛抱強く待たなければなりませんでした。ヘロデから秘密裏に話を聞いた後、やや当惑した占星術学者たちは、ヘロデのアドバイスに従ってベツレヘムに行くことを決意しました。

 そのとき、急に現れた神秘的な星が彼らの希望をよみがえらせ、イエスに向かって歩むように導きました。占星術学者たちにとって救いの夜明けが始まり、彼らを包んでいた疑惑の闇は消滅しました。ヘロデや律法学者やエルサレムの大祭司たちとは違って、神が彼らを見捨てたりはしないこと、むしろ彼らの歩みをどのように導くかをよく知っていました。希望とともに喜びが占星術学者たちの心に溢れます。この喜びを彼らは貴重な贈り物とともにイエスに捧げました。残念ですが、すぐ暗闇が彼らの近くに戻ってきました。彼らの信仰と間違いなく彼らの命を守るために、神は夢の中で、別の道を通ってできるだけ早く自分の国に帰るようにと占星術学者たちを促しました。

今日、これらの占星術学者たちは私たちに信仰をかき立てるように勧めています。信仰は占星術学者たちの星のようなものであり、信仰なしでは私たちの道を見つけることは不可能です。確かに、信仰がなければ、司祭が遣わされた教会でイエスの代わりに皆の間に立っていることをどうして信じることができますか。信仰がなければ、そこにいるあなた方皆が神ご自身の愛から私に与えられているということをどうして信じることができますか。信仰がなければ、個人的、家族的、地域の出来事がすべて、神の指のしるしであるとどうして信じられますか。信仰のこの側面がなければ、私たちの人生は理解できず、生きていられなくなります、ここで私たちをイエスに結び付けるのは信仰です。私たちのキリスト教的な共同体を築き、堅固にするのは信仰です。
 
 そうであれば、占星術学者たちと共に、神を信じる喜びと、私たちが神に託した希望をイエスに捧げましょう。私たちの3つの貴重な贈り物を捧げましょう。すなわち愛徳で満ちているわたしたちの活動の「黄金」、私たちの祈りと賛美の「乳香」、そして罪と悪のあらゆる形から遠ざけるための私たちの努力の「没薬」を神に捧げましょう。これらの捧げ物がみな、私たちの神への崇拝と感謝のしるしとなりますように。もし、それで十分でないなら、供え物として私たち自身を神に捧げましょう(ローマ人への手紙12,1 参照)。 アーメン。

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         主の洗礼の主日 C 年  2025112日    グイノ・ジェラール神父

                  イザヤ40,1-11  テトス 2,11-3,7  ルカ 3,15-22 

今日、私たちが大切に祝うこの祝日は、キリストを「父の愛する子」として私たちに示します。この祝日はまた、私たちも洗礼によって「御父の養子」となったことを思い起こさせます(参照:ガラテ45)。したがって、この祝日は私たちの祝日であると同時に 私たちと世界にとっての祝福の源です。

 神は御子イエスによって、私たちを祝福してくださいました。祝福とは、言葉と結びついた聖霊の賜物です。神が「あなたは私の愛する子だ」と言われると、聖霊が直ちにイエスの上に降り、今言われたことを成就させるのです。同様に、司祭がパンとぶどう酒を聖別する言葉を発すると、すぐに聖霊が働き、それらをキリストの体と血へと変えるのです。このように、神の祝福は言葉であり、同時に霊的な賜物でもあります。

 祝福によって与えられるこの霊的な賜物は、所有するものではなく、存在するものです。それは常に霊的な賜物であり、実際にはこの賜物は聖霊ご自身です。司祭である私が神の祝福が皆さんに与えられるように祈るとき、私はこの聖霊で一人ひとりを満たしてくださるように神に願っています。なぜなら、この聖霊は世界を新たにし、私たちを新しい人へと変える力ですから。神の祝福が私たちに与えられるとき、典礼はその意味を完全に発揮します。なぜなら、私たち一人ひとりが「霊的な者」になる、すなわち「聖霊を持ち運ぶ者」になるときに、神が栄光を受けられるからです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(参照:1ペトロ2,5)。

司祭にとって、祝福とは司祭を混乱させるものです。祝福は司祭をはるかに超えた行為ですが、祝福される者に届くには司祭を通らなければならないからです。確かに、祝福を授ける司祭は、自分が持っていないもの、自分に直接に関係のないものを実際に与えているのです。司祭は何も持っていませんが、祝福を受ける人に、神が司祭を通してすべての豊かな恵みを与えます。不思議なことですが、司祭の祝福の言葉は、すべてのものを新しくし、すべてを聖化する聖霊の賜物を与えます。そして、さらに驚くべきことは、実際、「父の養子」である私たち一人ひとりは、信仰生活と祈りを通して祝福の泉となるように招かれています。私たち一人ひとりは、自分の行動と言葉を通して、私たちの内に働かれる聖霊の臨在を明らかにするように召されています。ですから、神にますます栄光を帰するために、私たちの霊的な成長を求めていきましょう。

このように行動することによって、たしかに全てのキリスト者が祭司職の役割を果たせるのです。洗礼を受けたので、皆さんは全人類に奉仕する「祭司、預言者、王」になったことを忘れないでください。共同祈願の時は、ミサの中でキリスト者たちが司祭職の役割を発揮する唯一の瞬間です。実際、その時にこそ、キリスト者たちの祈りと執り成しは、世界の救いを父に懇願するキリストの永遠の祈りと執り成しと混ざり合っています。

 この祝日に、私たちが受けた洗礼の恵みを神に感謝し、洗礼を受けるように、祈り、指導し、支えてくれたすべての人に感謝しましょう。私たちの信仰生活がすべての人にとって輝き、常にいつも、どこでも、神の栄光をもたらすことができるように、聖霊が私たちの内に力強く働いてくださるように願いましょう。アーメン。

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        主の奉献 C年  202522日   グイノ・ジェラール神父

             マラキア 3, 1-4    ヘブライ 2, 14-18    ルカ 2, 22-40

 主の奉献の神秘を理解するには、シメオンや女預言者アンナのような純粋なまなざしが必要です。シメオンは、自分に与えられた約束により、イエスがメシアであり、彼が救い主であることを認めます。期待以上のものを見て喜びの絶頂に達したシメオンは、神がどのようにして世界に救いをもたらすのかをその目で見たので、もはや人生に何も期待せず、死を望みました。この救いは地球上のすべての人々にとっての光となるでしょう。したがって、教会は伝統的に、今日信徒たちが持ってきたろうそくを祝福します。このろうそくの光りは私たちの目と心を照らし、全人類を照らし温めるために自らを焼き尽くすキリストご自身を象徴しています。

  女預言者アンナはすでにかなりの年齢を重ねており、生涯を祈りと悔い改めの中で過ごしました。彼女はまた、イエスをメシアであると認識し、彼の到来を待っている人々に急いでイエスについて話しました。アンナとシメオンの信仰は純粋で、彼らの信仰は単純で光り輝いているので、両親に連れられて神殿に来た幼子がメシアであると理解しました。彼らは日々、絶えず祈りの内に神の御心を受け入れながら生きている人たちです。新しい時代が始まったばかりであることを最初に理解したのは彼らでした。そして、シメオンだけが、神の救いは無理解と苦しみを通じて達成されることを理解していました。
 
  「シメオン」という名前は「耳を傾けて従順に従う人」を意味します。「アンナ」の名前は「恵み」または「優待」を意味し、アンナの父「ファヌエル」と言う名前は「神の顔」を意味します。84 歳は、つまり 7 12 倍、結婚して 7 年という数字は、優雅さの充満を思い起こします。シメオンとアンナは、二人とも神殿に留まり、神の臨在の中で生きています。彼らにとって、神だけが彼らの人生を満たしてくれる評価できない程の富です。

 マリアとヨセフは律法に従ってエルサレムの神殿にやって来て、イエスを腕に抱いて彼の父である神に差し出し奉献します。なんという驚くべき神秘でしょう。この神との出会いを通して、マリアとヨセフは、たとえすべてを理解できなかったとしても、神の光の中に一歩近づきました。私たちと同じようにマリアとヨセフも人生の出来事を通して神を学び知っていきました。しかし、私たちのこの人生は私たちのものではありません。私たちは神から命を受け取り、その受託者であるだけです。しかし自信を持って私たちは「父よ、私の命をあなたの御手に委ねます」と言えるのです(参照:ルカ2346)。

 神へのこの短い祈りを度々繰り返しましょう。この祈りが私たちを神の光の中に導いてくれるからです。また、この祈りは神の救いが何を意味し、何を実現するのかを理解するのにも役立ちます。今日の主の奉献の祝日が、私たち一人ひとりに、清い眼差しと清い心を与え、絶えず神の臨在の前で生きたいという強い望みを与えてくれますように。アーメン

                            

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